公務の立場からは、一切を(1)人と(2)モノとを要素として叙述しなくてはならない。
国民、市民の理解を得るためである。
しかし、方略(?)の基本は、無要素である。そのレベルまで純化されていない対象を方略とは呼べない。
なぜ、「戦略」の語を用いないのかは、理由がわからない。
悲嘆時の言葉。
解釈が転倒すると意味も転倒する。
「〇〇の世代は、やはり動くと思う。」
認識のあり方は、この「直知」以外にない。また、直知、は磨かれることはない。
さて、直知の内容は、論証を省略するうえ、その内容が一種の批評性、批判の性格を帯びるため、報道(非公務であるが公共メディアに所属)や公務の立場にある者には用いることができない。
ゲストのコメンテーターによる個人の立場からの発言になじむものである。